【武士道】日本人の魂に刻まれた不滅の教訓

人間関係
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日本は宗教がない国家として有名です。

海外では、宗教を基盤に、善悪の基準を教育します。

しかし、日本にはそのような基盤となる道徳感がありません。

国教のない日本で、何をもとに道徳教育をすればいいのか。

新渡戸稲造はその答えを「武士道」だと、結論づけました。

バラとサクラ

ヨーロッパ人は、甘美さの陰に棘を隠している「バラ」を愛でます。風に吹かれても散ることなく、枝についたまま朽ち果てる。

このような「生への執着」が考え方の基盤にあるのです。

一方で、日本人が好むのは「桜」です。美しさと儚さを合わせ持ち、風のままに潔く散ってしまう。

このような「美学」が、日本人らしさといえます。

ヨーロッパが「バラと騎士道」を愛するように、日本も「桜と武士道」を愛するのです。

武士道とは何か?

「武士道」という言葉が使われ始めたのは江戸時代からです。

しかし、通俗的な形で、人々の間に流布するようになったのは、「武士なき時代」、近代になってからです。

一人の人間が決めた思想ではなく、社会の成長とともに、口伝えされていきました。

この考え方は武士から庶民へと、広く浸透していき、やがて「大和魂」として日本人の考え方の基本となったのです。

新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、武士道の道徳律を6つに分類しました。

それは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」です。

今回はこの中で、「義」と「勇」について掘り下げていきます。

武士道の基本は「フェアプレイ」

「義」とは「正義」。

人間として正しい道のことを指します。

つまり、「正々堂々」「公明正大」「簡明直截(かんめいちょくせつ)」が、武士道の基本精神ということです。

例えば、「敵に塩を送る」という言葉があります。

この言葉は「義」を重んじる上杉謙信の話がもとになったとされています。

時は戦国時代。

あるとき、武田信玄は、今川氏政によって、商人が往来するルートを断たれてしまいました。「塩留め」です。

武田の住む領土は海に面しておらず、塩が入らないというのは、死活問題でした。

そんな苦しむ武田に、謙信から手紙が届きます。

「私があなたと戦っているのは、弓矢の上であって、米や塩で戦っているわけではない。今後、塩が必要なら我が国から供給しましょう」

たとえ敵であっても、困っている相手には手を差し伸べる。

いくら勝っても、美しくなければ意味がない。

それが、武士の「義」です。

「義」は全ての基本!

真木康臣(まき・やすおみ)は「義」についてこう語っています。

「『義』は体に例えるなら骨である。骨がなければ首も正しく胴体につかず、手足も動かない」

つまり、いくら才能や頭が良くても、「義」がなければ人ではない、というのです。

「義」がベースにある武士にとって、金は二の次でした。

損得や打算的生き方ではなく、自分が正しいと思った道を信じて突き進むことこそ、美しいと考えたのです。

そのため、武士の時代は、「士農工商」という言葉がある通り、商人は卑しい人だと考えられていました。

「武士は食わねど高楊枝」

正しいこと、「義」のためには「我慢」や「勤勉さ」「真面目さ」がもっとも大切である、と考えたのです。

義を見てせざるは勇なきなり

「義をみてせざるは勇なきなり」は『論語』の中にある、孔子の言葉です。

「勇」とはまさに、この言葉に集約されています。

つまり、義(正しいこと)を貫くための「勇気」。それが「勇」です。

また、一言に「勇気」と言っても、「無鉄砲」であることとは違います。

武士は幼少期に、「匹夫(ひっぷ)の勇」と「大勇(たいゆう)」の区別を学びます。

死ぬとわかっていて、わざと敵陣に突っ込むのは「匹夫の勇」で、それは真の勇気ではないとされました。

真の勇気とは「大勇」のことで、譲れないところは、絶対に譲らないという考え方です。

周りのみんなが黒を白だと言っても、聞かないこと。

たとえ世界中が自分に「どけ!」と言っても、決してどかないこと。

そして相手の目を見てこういうこと。「そっちがどけ!」と。

武士は、このような「大勇」を実行するため、肉体を鍛え、精神も修行します。

筋トレや剣術、勉学はもちろんのこと、瞑想や冬場にパンツ一丁で外(庭)に出たりもします。

そうやって「勇」を磨くのです。

今の我々も「武士道」がベースにある!

人間としての思いやり、他者への憐れみの心、「仁」。

他者の気持ちを尊重することで生まれる謙虚さ、「礼」。

「言」と「成る」と書くように、二言なく、言ったことを実行する、「誠」。

恥を知り、人としての美学を追求する、「名誉」。

このような武士道の精神。

何か一つは、自身に備わっているような気がするのではないでしょうか。

もちろん、貧しくてもいいから、正しい道を進むべきだと主張するつもりはありません。

お金が現代の資本主義社会において、もっとも大きなウェイト占めていることはわかっています。

ですが、だからこそ、昔の彼ら、武士から学べることもあると思います。

「アンフェアな行いをしてまでそれが欲しいか」

「勇気を持って何かを成したことがあるか」

「感謝の気持ちを伝えたことがあるか」

「相手の気持ちを考えたのだろうか」

「自分に嘘をついていないか」

「今の自分は美しいか」

昔の彼らは、現代の私たちと比べ、果てしなく「貧しい」暮らしをしていました。

温かいお水が出るホースも、食べ物が凍る箱も、人が入っているドラム缶もありません。

ですが、そんな彼らは、決して「貧しく」はありませんでした。

自分の「美学」を追求していたからです。

誰かと比べることなく、自分自身が掲げる「美」を磨き続けた彼らは、もしかしたら、現代の私たちよりもずっと「豊かな」生活を送っていたのかもしれません。

新渡戸稲造が書いた『武士道』は、そんなことが学べる一冊でした。

みなさんもぜひ読んでみて下さい。

(参考文献)

武士道 (岩波文庫)