自分が嫌いだ。
足が遅い。口が臭い。背が低い。エラが張ってる。鼻が低い。太ってる。
このように、自分に対して、さまざまなコンプレックスをお持ちの方も多いと思います。
特に外見的コンプレックスは最悪です。
頭が悪い。物覚えが悪い。文字を読むのが辛い。
このような内見的なものは、隠くしたり、見て見ぬふりをすることができます。
しかし、外見的なものは隠しようも、努力のしようもありません。
今回はそんな外見的にコンプレックスを解消するためのヒントを「ジャン=ポール・サルトル」から学んでいこうと思います。
ジャン=ポール・サルトル
サルトルは、容姿に悩みながらも、たくさんの少女に告白してはフラられた文学青年でした。
彼はたくさんの外見的コンプレックスに悩まされました。
背が低く、目もぎょろっとし、その上、強度の「斜視」。
それでも、人一倍「モテたい」という欲求が強く、美少女に告白しては振られるという経験を繰り返してきました。
そんな彼は、数年後、同じ大学のマドンナであったボーヴォワールとの交際し、生涯の伴侶とすることに成功しました。
『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』という映画にもなったほどです。
私は書くことから生まれた。その前にあったのは、鏡に映った像だけだった。
強烈なハンデを抱え、それでもモテるインテリになるために——いいかえれば「本質」を否定し「実存」に生きるために——考え、行動し続けた彼から、我々は多くのことを学べるはずです。
人生に意味や目的なんてない
トカゲという動物がいます。
トカゲには「とかげ」という本質があります。
硬い鱗に覆われ、壁や天井を歩き、昆虫などを捕食する。長い尻尾を持ち、外敵に襲われれば、その尻尾を自ら切り、逃げる。
このような能力をもった生き物であり、自らに似た子孫に残すために生きているといった目的もあります。
これらがトカゲの「本質」です。
一方で、人間には、本質というものがありません。
その人の人生の意味や目的といったものが、あるようで存在しない。
人間は徹底的に自由なのです。しなくてはならないことがあるようで、実は何もない。
「人間は自由の刑に処せられている」
「人間は自由に呪われている」
と、サルトは言います。
ちなみに、哲学では、動物と人間とを「即自存在」と「対自存在」なんて言ったりします。
「対自存在」は、「それが現にあるところのものではなく、それが未だないところの存在」だと定義されています。
つまり哲学が言いたのは、以下の通りです。
「持って生まれたものなんてどうでもいい。これからなろうとするもの、しかしまだなれていない、なっていないものになりうるということだけが重要なのだ」
「私は〇〇である」と思い込みを捨てること。
「私は●●になれる」と思い込むことが重要なのです。
最後に
人間だけが、与えられた自分を否定し、あらゆる囚われから自由になることができます。
トカゲはトカゲにしかなれません。
サルトルは言います。「実存は本質に先立つ」と。
ブサイクだから美男美女と結婚できないわけではありません。実際にそれを実現した人たちがいます。
顔だけではありせん。あなたはどんな風にもなれます。
サルトルは後半生、今までの自分の哲学を実践ヘと移しました。小説家に始まり、劇作家、批評家、ジャーナリスト、ソーシャル・アクティヴィスト。
彼の人生の原動力は全て、鏡に映る、自分のコンプレックスからでした。
さて、皆さん。あなたの鏡には何が写っていますか?
<参考文献>