進化生物学者のリチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で、人間とは「 DNAの乗り物」に過ぎないと言いました。
みなさんはこの言葉をどう感じますか?
人は、「種」でなく「DNA」
これまで、生物は「種」そて考えられてきました。自分の種やグループが淘汰されないために、行動をとってきたと。
しかし、本書はその見方を「DNA」に変えます。
生物は、自らを構成している「DNA」の指示にただ従って行動している、という見方です。
「群淘汰」説から、「遺伝子淘汰」説への転換です。
人間は遺伝子の「乗り物」
具体的に、「遺伝子淘汰説」とはどのような見方なのでしょうか。
それは、DNAをベースにした考え方です。
DNAは生き残ることが最重要事項です。そのため、自分(DNA)が生き残るための「乗り物」を探します。
例えば、「水の中でしか生きられないDNA」は、「魚」という「乗り物」を作り出します。
「空の上でしか生きられないDNA」は「鳥」という「乗り物」を作り出し、「木の上でしか生きられないDNA」は「猿」という乗り物を作ったのです。
このように、「生物は遺伝子を守るために作られた乗り物」という考え方が、「遺伝子淘汰説」です。
人の行動は結局「利己的」
生物は遺伝子としての「乗り物」。
そのため、その生物の行動自体も、生物と非常に大きな関わりがあります。
例えば、車に轢かれそうになる子供を父親が庇う、という行為。
これは一見、利他的、つまり、自分の遺伝子よりも、他人の遺伝子を優先したという見方もできます。
しかし、これもDNAの指示です。
DNAはその状況において、どちらのDNAを優先すべきかを瞬時に考えます。
そして、その優先順位が自分ではなかった時、自分のDNAより他人のDNAを優先した方が利益があると見込めた時、「利他的な行動」を取ります。
先ほどの例で言うと、「自分の乗り物より、自分の複製であるDNA(息子)を救う方が、寿命などの面で利がある」と判断し、行動していると言うわけです。
おわり
「私たちは、遺伝子という名の利己的な遺伝子をやみくもに保存するべくプログラムされたロボットの乗り物——生存機械なのだ」(本書より)
これはあくまで、進化生物学者のリチャード・ドーキンスの見方です。
しかし、「自分」という人間を考える上で、非常に面白い考え方だともいます。
みなさんは、「自分」や「人間」という存在に対し、どのように感じますか?
ボーナストリビア:人間DNAの目的は?
『夢をかなえるゾウ』で有名な水野敬也さんが書かれた本に、『スパルタ婚活塾』という本があります。
本書では、DNAの目的として以下のように書かれています。
DNAの目的とは、「セックスをして子孫を残し、乗り物を乗り換える」ことであり、その意味で人間とはセックスを目的とした複雑な機械にすぎないと言える。 そこで人間は、より多くの人間にセックスを求めさせるために、「セックスを禁じる」という文化を培ってきた。人間は「禁止されたものや容易に手に入らないもの」を求める習性があるからだ。だからこそ、性器には「モザイク」がかかるのである。 こうして、セックスというジャンルは人間にとって、「最大の目的であると同時に、最大の未開拓地」という、極めて皮肉な結果を生み出した。
このようなDNAの考え方も非常に面白いですね。