【哲学】『方法序説』——私たちの真理は、どこにあるのだろうか?

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「我思うゆえに我あり」で有名なデカルトが書いた『方法序説』。

「私」とは一体なんなんでしょうか。

真理を導く4ステップ

時は17世紀。30年戦争と言われる、最大の宗教戦争が勃発している中で書かれたのが本書です。

たくさんのイデオロギーが交錯するなか、デカルトは、「普遍的な原理、真理はなんだ?」と言うことを考えました。

周りが一つのイデオロギーをもつなか、デカルトはなぜそのような柔軟な視点をもつことができたのか。

それは、「真理を導く4つの規則」を知っていたからです。

その規則とは、「疑問」「分割」「順序」「確認」です。

まず第一に「疑う」こと。直感や、偏見によって判断せず、疑いの余地を挟むことを忘れない。

次に「分割」すること。いかなる問題も、突き詰めれば、小さい問題の集まりであることを知る。

そして、「順序」を踏む。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから徐々に、解決していく。

最後に、「確認」する。その考え方に本当に間違いないか、「疑う」姿勢をもち、確認する。

デカルトは、この4つの規則を知っていたことで、誰かの考え方に左右されず、自分自身のイデオロギーを信じることができたのです。

我思う ゆえに我あり

「我思う ゆえに我あり」

この言葉を聞いて思うのは、「そんなの当たり前じゃん」、です。

しかし、これは決して、そこらへんの偉人が、ある日思いつきで口にした名言ではありません。

考えに考え、導き出した結論なのです。

そもそも、デカルトは優秀な数学者でもあります。みなさんが、中学生の時に学習した関数、XとYのあのグラフ(二次元軸)を作り出したのもデカルトです。

そんな賢いデカルトが、ある日、「我思う ゆえに我あり」と思いつきで発した訳がありません。

彼はありとあらゆるものに真理を追い求め、「世の中で100%否定できないものは何か?」について考えました。

そこで彼は、ありとあらゆるものに、「否定の可能性」を投げかけるのです。

  • 私の感覚は、誰かによって作り出されたものかもしれない
  • 数字によって導き出されたこの答えは、計算ミスなどで、実は間違えているかもしれない
  • 今の思考は、夢の中の自分によって形成されたものかもしれない
  • テレビの中の人物はもう死んでいて、AIが自分達に幻覚を見せているかもしれない

彼はこのように、ありとあらゆることを疑い続けました。

そして、あるとき気がつくのです。

「って、今こうやって考えている「自分」と言う存在、「私が何かを疑っていると言う事実」は疑え何のではないか?」

疑う自分を疑ったとしても、結局、その疑う自分がそこにいる訳だから……。

そうか。

「我思う ゆえに我あり」

おわり

デカルトは、真理を疑う4つの規則と、その異常なまでの「否定の可能性」によって、「我思う ゆえに我あり」という結論を導き出しました。

この考え方は、正直あまり意味がありません。

私たちが、生きていく上で、「我思う ゆえに我あり」と考えたところで、何も好転しないことも事実です。

しかし、デカルトがこの結論を導くまで通過した、数々の苦難とその戦い方には、学ぶべきところがあると思います。

「当たり前を疑う」

その姿勢を忘れないようにしましょう!

ボーナストリビア:なぜ私たちは理解し合えないのか?

デカルトは、『方法序説』の中で、なぜ私たちは理解し合えないのか、について触れています。

その理由は、「私たちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいない」からです。

簡単にいうと、「考えるべき対象」と「考え方」に違いがあるからです。

ですので逆に、私たちの意見を揃えるには、「インプット(考えるべき対象)」と「スループット(考え方)」を揃えればいいのです。

そうすれば「アウトプット(意見・主張)」は同じものが出てきます。

ですが、この「考え方」を揃え、変えると言うことは、その実、難しいです。

なぜなら、私たちは普段、思考や考えを巡らす時、ほぼ無意識的に行っているからです。

寝ている時の寝相を意識的にコントロールできないように、思考や考え方も、意識的に変えることは非常に難しいです。

だからこそ、『方法序説』が何百年経っても色褪せないのかもしれません。

人類は、何百年も前からこの真理を知っているのに、今も本質的なところでは何も変わっていない。

私たちはこの「当たり前」に、疑問を投げ続けなくてはならないのです。

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