【ゴッホ】弟に養われ続けたフィンセント・ファン・ゴッホ

偉人
スポンサーリンク

『ひまわり』『星月夜』『タンギー爺さん』といった名画を描いたフィンセント・ファン・ゴッホ。

彼の絵は生前一枚も売れず、生活はいつも弟のスネをかじっていました。

素晴らしい弟・テオ!

ゴッホの絵が、生前、一枚も売れなかったことは有名です。

現代では、『ひまわり』は53億円、『星月夜』は80万ドル以上もの価値があります。しかし当時は誰も見向きもしなかったのですから、芸術は本当に面白い世界です。

生前、唯一の買い手は親戚だけで、彼は画家として生計を立てていくことができませんでした。

そんなゴッホを、生涯に渡り面倒を見続けたのが、弟のテオドルス・ファン・ゴッホ(通称「テオ」)です。

一般的にゴッホは貧乏暮らしをしていたように見られます。しかし、その実は、弟に養われ、十分な生活を送っていました。

親に愛されなかったゴッホ

ゴッホは5人兄弟でした。

長男のゴッホ、次男のテオ、それから妹が2人と、弟が1人いました。

ゴッホは気難しい性格をしており、家族と、特に父親とはソリが合わず、友人も多い方ではありませんでした。

そんなゴッホが、就職もせず、ただ売れもしない絵を描いていたので、当然、両親からは見放されてしまいます。

ただ、そんなゴッホの唯一の理解者が弟のテオでした。

テオだけは、生涯に渡り兄のことを見捨てず、無償の信頼と愛を持ち続けたのです。

当然、気難しい性格のゴッホですから、何度か衝突することもありました。そんなテオの姿を見かねた妹のアンナは「援助をやめる」よう言ってきます。

しかし、テオは「金の問題ではない。気持ちが通じ合えないことが問題なのだ」と、兄の気持ちに寄り添えないことを悔やみます。

それからも、「今は認められなくても、いつかはきっとは売れる」と、妹に話し、兄の絵を絶賛し続けました。



ブラザーLoveのお兄ちゃん!

そんなゴッホは、テオに対し、すごい量の手紙を書きました。

それはもう、ラブレターの比ではないほどの熱量でした。

1872年から、亡くなる1890年までで、実に668通にも及んだそうです。

内容は多様で、普通の手紙の時もあれば、自分の考えを書いた日記だったり、大きなテーマについて語る時もあったそうです。

「私の最終的な目標が何なのか、お前は聞きたいのだろう。ラフがスケッチになり、スケッチが油絵になるように、最初ははっきりしなかった考えも、具体化するにつれて、より目標は明確になり、歩みは遅くとも成就されるのではないか」

「偉業は衝動的に成就するものではなく、 ひとつひとつの小さなことがひと繋ぎとなって成される。そして、はっきりした意志を持っていなければならない。決して偶然に成されることはない」

「絵は私の資本だが、世界はまだこの資本の価値を認めてくれていない」

などと書かれていたそうです。

また、ゴッホは描くスピードが早かったことで知られていますが、描く前にスケッチで構想を固めてから描くスタイルの画家で、その構想を手紙に同封することもあったそうです。

「ゴッホ」とは「『テオ』と『フィンセント』」のこと!

そんな弟の援助と全幅を信頼を得ながらも、ゴッホは、1890年7月末にピストルで自殺してしまいます。

「弟の結婚により、自分への援助が断たれるのではないか?」という不安から、もしくは、弟からの愛情の重さに耐えかねての自殺、はたまた、子供たちがピストルで遊んでいた事故によるもので、そのことを隠すため、などなど、理由には、さまざまな都市伝説があります。

また、兄の死から半年後、テオも33歳の命でこの世を去ります。

死因は病死で、もともと脆弱な体質で、ぜんそく持ちであり、それに畳み掛けるように、兄の自殺が起き、精神的にも参ってしまったことが原因です。

ゴッホの死ぬ直前の人生に、一体何があったのかは誰も知りません。

ですが、2人の兄弟が残した傷痕は、のちの世界に大きな影響を与えました。

ビートルズの、ジョンレノンは言いました。

「愛とは育てなくてはならない花のようなものだ。(Love is like a flower – you’ve got to let it grow.)」

ゴッホという「ひまわり」を咲かせのは、テオの愛だったのかもしれません!



偉人
スポンサーリンク