偶像礼拝
十戒を授かってからしばらくして、モーセは再び、神の声を聞くため、山に登りました。
しかし、40日が経過しても、モーセが下りてくる気配がありません。
なかなか帰らないモーセに、兄のアロンをはじめ、民達も不安が募っていきました。
そして、その不安は、段々と肥大化していきます。
「もしかして何かあったのでは?」「もう死んでいるのでは?」
アロンもモーセを心配しながら、「まぁ、待ちなさい」と民達を抑え込んでいました。
しかし、民達もついに限界がきました。
「モーセが神の声を聞きに行って、もう何十日も経ちます。本当に神はいるのですか?」
「声を聞かせてください!」
「神の姿を見せてください!」
膨れ上がった民たちを、アロンは止めることができませんでした。
そこで、アロンは民の意見を聞き入れ、神の像を作ることにしました。
民から金の耳飾りを集め、それを使って、職人に小牛の像を作らせました。
そして、いざ、民たちこの像を見せると、みな、金の小牛を見て大喜びしました。
それから、彼らは、この像に礼拝しながら宴会を開き、踊り狂いました。
人々は、十戒の一つ”像を作ってはならない”を破ってしまったのです。
モーセ激怒
一方その頃、モーセは山で、シャカイナ・グローリーに包まれながら、祭壇や幕屋の設計図も教わっていました。
※幕屋……神殿。礼拝する場所
すると突然、神の鋭い声がします。「今すぐ山を下りていきなさい。民か堕落しています」
モーセは急いで、山を下りました。そして、そこに広がっていたのは、民が子牛を拝み、その周りでどんちゃん騒ざを繰り広げている光景でした。
モーセは怒り、金の小牛を叩き壊し、火で焼きました。
それから、アロンを問い詰めます。
「何という事をしたのですか。神の戒めに逆らっているではありませんか」
「民がどうしても『目に見える神が欲しい』と言ったのだ。わたしにはどうすることもできなかった」
翌日、モーセは神の元に赦しを請いにいきました。
神はいいます。
「もう限界です。これまで民は常に私に逆らってきました。そしてこれからもそうでしょう。ので、私は彼らを滅ぼそうと思います」
「神よどうか、怒りを収めてください。あなたがアブラハムと結んだ契約をお忘れですか? あなたは『カナンの地をあなたとあなたの子孫に与える』と約束してくださったではありませんか」
痛いところをつかれた神は、「まぁ確かに……」と、しぶしぶイスラエルの民たちを許すことにしました。
おわり
こうして、無事神から許しを受けたイスラエル人たちでした。
しかし、彼らはこの後も、神に逆らいまかります。そして、その度に、神に頭を下げ、赦しを請うのでした。
ボーナストリビア:期待なくして怒りはない!
先日、『妻のトリセツ』と言う本を読んでいたら、「夫に怒りを覚えるのは、雷と同じ」という一節がありました。
よく怒りを爆発させることを、「雷を落とす」なんて言い方をしますよね。
これは言い得て妙で、ストレスの放電は、まさに雷に似ています。
なぜなら、「一番高いところ」に、落ちるからです。
妻が夫に対し、一番腹が立つのは、夫が彼女の脳の中で、最も高い場所にいるからで、最も期待し、最も求めているからです。
現に、ファミレスで、店員の接客が気に入らなくても、そこまで怒りを覚えないはずです。そもそも、期待をしていませんから。
たくさん助走すればするほど高くこげる「ブランコ」と同じで、振れ幅の大きさはいつだって、前と後ろ、均等なのです。
期待が大きければ大きいほど、怒りも大きくなる。
だから、理不尽な怒りもまた愛だと言えます。
そして神が人々に対し、怒りを覚えるのもまた、人間に大きな期待を寄せているからに他ならないのです。
(参考)