呉と越
縄文・弥生時代の頃、中国には、「呉」と「越」という二つの国がありました。
両国の仲は、「呉越同舟」という言葉があるように、とても悪いものでした。そしてこのケンカの理由は、農業にありました。
黄河文明と長江文明
中国の文明といえば、四大文明の一つ「黄河文明」です。しかし、そのほかに、もう一つ、四大文明に匹敵する強大な文明がありました。「長江文明」です。
北方で栄えた「黄河文明」は、大豆や麦などの「畑作文化」。一方、南方で繁栄した「長江文明」は、「稲作文化」。
両者はそれぞれの地形にあった、それぞれの農業形態で、繁栄していったのですが……。
時は流れ、寒冷化が進むと、北方に住んでいた黄河文明の人たちは、農業に適した暖かい土地を求め、南下してきたのです。
そして、もともと南方に住んでいた長江文明の人たちと、争うようになりました。
これが「呉」と「越」が争うきっかけになった、背景です。
結果、「越」は戦に敗れ、山岳地帯へと落ち延びていきました。彼らは、険しい山の中で、棚田を築き生き延びました。
しかし、山ではなく、海を渡った者たちもいました。そして、海を渡った先にあったのが「日本」です。
おわり
当時、すでに日本にも「イネ」は伝来していました。しかし、「越」の人々の登場で、日本の稲作は格段に広がっていったのです。
ちょうど、縄文後期から弥生時代の頃の出来事でした。
ボーナストリビア:東日本は稲作を嫌った
縄文時代、当時の食生活は「狩猟」と「里芋」の二つが主なものでした。
もちろん、「里芋」を食べるためには、農業もしなくてはなりませんでした。しかし、サトイモなどは、植えておくだけで勝手に成長してくれるので、「農業」と呼べるほどのものではありません。
そして、縄文時代後期、「イネ」が登場します。サトイモなんかよりも栄養価の高い「イネ」を半永久的に食べるために、「農業」が初めて生活の一部となりました。
九州北部から始まった稲作は、わずか50年ほどで、東海地方にまで広まっていきました。
しかし、そこから東の地域には、なかなか広まりませんでした。
なぜなら、彼らにはすでに、大勢の人々を食って養っていくだけの食糧があったからです。
元来、楽をしたがる人間にとって、益のない行動、ましてや重労働はもってのほかだったのです。
ただ、時は流れ、「イネ」に食糧だけでなく、「富」という新たな一面が登場したことにより、事態は一変します。
狩猟生活の時は、収穫量に大きな差がなく、ノーサイドの精神が重んじられていました。しかし、「イネは貯蔵できる」というメリットが浮上し、突如、大きな貧富の差が生まれたのです。
富をもつということは、権力をもつということでもあります。権力があれば、人が集まり、国力が高まる。
農業が単なる「ライフスタイル」から、「国の政策」へと変貌したのです。
これに気づいた東側の人々は、こぞって稲作を始めていきました。
(出典)