最近になって、哲学にどハマりしています。
高校時代、倫理や哲学、政治経済と言った科目は、受験に関係のない、内職をするための科目でした。
ですがそう言った科目に限って、勉強してみると楽しかったりします。美術とか、工芸とか、書道なんかもそうですね。
今の受験制度に辟易する今日この頃です。
さて今回の記事では、哲学者として誰もが知っている、ソクラテスについて書いていこうと思います。
ソクラテスの名言
ソクラテスといえばこの言葉が有名ですよね。
「結婚したまえ。良妻を得れば、幸福になれるし、悪妻を得れば、哲学者になれる」
「いや、『無知の知』じゃないんかい!」
と突っ込まれた方は流石です。
正直、皆さんの中には、たくさんの哲学者の名前はあるものの、誰が何をしたのか、正確に結びついてる人は少ないのではないでしょうか。
「『無知の知』を言ったのは、ソクラテス?アリストテレス?デカルト?」みたいな人もいると思います。
そんなことよりも、僕が最も好きなのは、哲学者の人間的な部分です。
ソクラテスは、生涯、妻のクサンティッペに頭が上がりませんでした。
そんな彼の残した言葉が上記のものです。
実に人間らしい。
哲学者というと、別次元、神のような存在に思えてしまいます。
しかし、実際は我々と似たようなことを悩み、似たような生活を送ってきました。
そんなことを知ると、ソクラテスも同じ会社の同僚みたいに感じてきませんか。
相対主義
さてさて、閑話を休題しまして、「無知の知」についても、一応、軽く、少しだけ、ちょっとだけ書いていこうと思います。
どうか最後までお付き合いを!
ソクラテスが「無知の知」を唱えるまで、人々は違う考え方を持っていました。
それは、『みんな違ってみんな良い』という考え方です。
この思想を植え付けたのが、プロタゴラスです。
彼は「相対主義」を唱えました。
「この世に絶対的な真理なんかない」
「人は万物の尺である」
というのが彼の主張です。
一見素晴らしいように見える彼の主張。
しかし、これは、見方を変えると、「ひどい主張」も「素晴らしい主張」になる恐れがあります。
多数決を例に取りましょう。
学校でも、会社でも、選挙でも、多数決は民主主義社会においてよく使われるシステムです。一見して、とても公平かつ正当なところが魅力的なのでしょう。
しかし、「相対主義」の思想がベースにある人たちが多数決を行うとどんなことが起こるでしょうか?
意見がまとまらないことは愚か、そもそも、一つの意見にまとめることさえできません。
「人それぞれ」「みんな違ってみんな良い」という考え方は一種の思考放棄です。
「真理を追求することをやめた人間の行い」と言い換えることができるかもしれません。
多数決は事前に人それぞれの正しさや価値観をぶつけ合う必要があります。そうして初めて、「おさまるところにおさまる」ように機能するのです。
そして、その行いにストップをかけてしまうのが、「相対主義」なのです。
おわり
「国家のため!正義のため!みんなの幸せのため!断固たる決意を持って抜本的改革を!」
プロタゴラスの相対主義的な考え方を学んだ政治家は、このような中身のない、見せかけの言葉を使い、民衆からの票を集めようとします。
このような状態に「待った!」をかけたのが、ソクラテスです。
ソクラテスのいう『無知の知』は、「無知を自覚していることが偉い」という意味ではありません。
「真理を知りたい」という熱い追求を表す言葉なのです。
無知を自覚し、それを学びの第一歩とする。
そんな尊い考え方が『無知の知』という言葉に凝縮されているのです。
それでは最後にソクラテスの名言を一つ。
私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ
ソクラテスより
(参考文献)