今回は『ZEN 釈宗演』という本に登場したあるエピソードを紹介します。
福沢諭吉、夏目漱石からスティーブ・ジョブズまで、なぜ彼らは禅ZEN に魅了されたのか?
「禅」の魅力について書かれた一冊です!
ご興味のある方は、ぜひ手にとってみてください!
お茶はどこへ行った?
登場人物は、若き日の「鈴木大拙」と、老僧の「釈宗演氏」の2人です。
今回紹介するのは、ある日、鈴木が釈に教えを請うた場面です。
当時、鈴木は釈が書いた草案を翻訳し、海外に広げるという仕事をしていました。(釈は、臨済宗円覚寺の元管長)
「私も数年参禅させていただいておりますが、当然の如く未だに何一つわからず、このような者が仏教についての草案を英訳など不可能に思えてならんのです」
鈴木のこの言葉に対し、釈は、「これは何だ?」とお茶を見せます。
鈴木が「お茶だと思いますが」と答えると、釈は今度、そのお茶を目の前でぐっと飲み干します。
「さて、お茶はどこへ行った?」
「それは、老師の腹のなかでしょう」
「然り、今朝食べた粥や胃の粘液と一緒に我が腹の中に収まっておろう。だが今は腹の中だとしても、入ったものはいずれ出てくる。ここで問うが、出てきたものは茶かな? それとも他の何かかな?」
「それは……他の何かかと思います」
「うむ、ならばさらに問おう。茶であったものはどこへ消えた? そもそもいつまでが茶と呼ばれるものであった?」
「それは……」
「境目などないのだよ、先ほど君はそれをお茶だと言ったが、私には緑と命そのものに見える。湯で煮出しされ、茶となる前、茶葉は植物として生きていた。その種は、水を吸い上げ日の光を浴び、様々な栄養を含む土によって育まれたはず」
「遥か過去より遥か未来へ続く、命と緑の流れの中で我々は生かされているのだ」
「一見無意味に見えるその事象も、全てに意味が有り起こるべくして起こっているのだ……と。踏み潰された果実、堕胎された胎児、打ち捨てられた獣の屍ですら、過去から今に……そしてまだ見ぬ明日へ影響を及ぼしていて、そして、なんらかの礎になっているのだ……と」
「おそらく、そんなところではないかな。私だって仏教のすべてを体得しているわけではないのだよ。では引き続き宜しく頼みますぞ」
おわり
「お茶はいつまでお茶であるか」という問いはまさに禅問答ですね。
命はどこまでが命で、死とは生とは何か。
そんなことがこの問いの中には隠されいるのだと思います。
万物に境目などというものはなく、すべてが繋がっている。
ふむ、わかりそうで、わからない。
なるほど、実におもしろい!