【旧約聖書⑫】イスラエル誕生 〜 「おれ、神と戦っちゃった!」

知識
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最高の人生

エサクから逃げ延びたヤコブは、ハランの地へとたどり着きます。そこでエサクは、叔父(母の兄)ラバンの元で働くことになりました。

そしてその後、ヤコブは充実な人生を送くりました。ラバンの娘(2人)と結婚し、子供をもうけ、多くの家畜を手に入れる。

この時代の、まさに理想のような人生を手に入れたのです。

神の啓示

しかし、そんなある日こと。

ヤコブは、再び神の啓示を受けます。

それは、「カナンの地へ、帰る」ということでした。

兄エサウがいる地に、舞い戻るのは、非常に怖かった。しかし、今の自分があるのは、神のおかげだと思い、神を信じ、カナンへと戻ることにしました。

ヤコブは家族と家畜の群れを連れ、出発。途中、ヤコブはエサウに使いを送り、探りを入れます。

すると案の定、エサウは、400人の部下を引き連れて、ヤコブを迎える事がわかりました。

復讐する気まんまんです。

謎の支援者

夜、ヤコブが川辺に立っていると、何者かが現われました。

エサウの使い、刺客、いや、神の使いか。何者かわからないが、ヤコブと兎に角、その者と決闘することになります。戦いは一晩中続き、その者は言いました。

「もうわたしを離してくれ。夜が明けてしまう」

ヤコブは答えました。「わたしを助けてくださるまでは離しません」

すると、その者は突然、あることを言いました。

「あなたは、これからはヤコブではなく、”イスラエル”と呼ばれる」

そういうと、その人は去っていきました。

ヤコブは思いました。

「ヤベェ、俺、神とたたかちゃった」

多くの聖書学者は、この「人」はただの人でも、天使でもなく、「イエス・キリスト」御自身であったと解釈しています。

ヤコブは「神と戦った」と思っていますが、聖書によれば、人は神を見たり、触れたり、ましてや戦ったりすることができません。

ですので、可能性として一番高いのは、「神の子」であるイエス・キリストとなるわけです。また、「キリストは神と人の仲介者である」という点もこの理由の一つです。

イスラエル

「イスラエル」の意味については諸説あります。

その一つは、このエピソードから、「神が勝利する」という意味の説です。

これまでの、ヤコブの人生は、ひたすら「自分が勝利する」ための人生でした。自分の知恵や武器、人脈、持てるものをすべて使い、兎に角、自分が勝利しようとする。そんな生き方をしていたのです。

しかし、このイスラエルという名をもらってから、ヤコブは変わりました。

ヤコブは、神が自分の代わりに戦ってくださり、勝利してくださる事を願う人生を歩むようになったです。

「自分の力を信じるのではなく、神に頼る人生を歩む」

今のキリシタン的考え方を持つようになったのです。

おわり

その後の話。

ヤコブは、エサウとその400 人の部下と会います。

そのまま争いか……と思いきや、2人は抱き合って再会を喜びました。

エサウはやはり単純な男で、簡単にヤコブを赦したのです。

その後ヤコブはカナン地方に定住し、12 人の息子と共に羊を飼いながら暮らしましました。

ボーナストリビア:神の選択は、私たちの励まし!

聖書を読むと、時々、「なんで神はこの人物を選んだんだ?」と思うときがあります。

例えば、ヤコブもそうです。

ふつう、エサウとヤコブの2人が面接に来たら、エサウを選ぶと思います。

狩りに行き、ご飯をたらふく食べれれ幸せ。単純かつ、愉快な性格のエサウの方が、一緒にいて楽しいし、神としても扱いやすいはずです。

しかし、神は、根暗で、狡猾、本音と建前をもつヤコブを選びました。

「たくさん努力したら、たくさんいい事をしたら、報われる」という私たちの概念とは、正反対の考え方です。

ただ実は、この選択にもちゃんと意味がありました。

それは、「神は誰も見捨てない」という事です。

聖書には「神の選択は人の行いや、性格にはよらない」と書かれています。

つまり、人間的に、いくら愚かな人や嫌われやすい人でも、神は声をかけ、選ぶというのです。

これはいわば、現代に生きるわたし達への励ましのメッセージです。

今の時代、生きているだけで、人は誰かと比較しています。

それは能力かもしれないし、性格かもしれません。

そして、時には、そのようなことで、自分が自分を見放す時があるかもしれません。

しかし、神は違います。

たとえ何があっても、何の理由もつけずにわたし達を愛してくれるのです。

人間の価値、わたし達の価値は、性格や能力によって決まるものではないと、神は伝えているのです。

(参考)

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