ヨシュアの最期
長きにわたる戦いも終わり、無事カナンの地に移り住んだヨシュア達。
ただその頃、ヨシュアは、自分の死期が近いことを悟っていました。
ある日、ヨシュアは民を集め、言いました。
「今の私たちがあるのは、すべて神のおかげです。戦いに勝ったのも、カナンの地を手に入れたのも、今生きてるのも、全て神のおかげです。
だから、あなた達はこれからも神を信じ通してください。律法も礼拝も、決して忘れていけません。いいですね?」
民たちは、「もちろんです」「神の掟を守ります」「神に従います」と、それぞれ自信満々の面持ちで答えました。
ヨシュアの不安
ただ、ヨシュアはその自信ありげな彼らの顔がむしろ怖くもありました。
なぜなら、彼らの姿が、神に何度も逆らった、先代の人たちと似ていたからです。
そのため、ヨシュアは言いました。
「いいですか。あなた達は、これからもずっと神を信じ続けるのですよ。たとえ世代が代わっても、そのことだけは絶対約束してくれますね?」
民は、「何をそんな当たり前のこと?」「そんな何度も同じことを……」などとと思いながらも、ヨシュアと約束しました。
おわり
その後、ヨシュアは110歳で人生の幕を閉じました
そして案の定、世代が入れ替わると、民たちの信仰はどんどんと崩れていきました。
荒野の旅も、ヨルダン川の奇跡も、エリコとの戦いも。
過去に経験した事柄は忘れさられ、民たちは他の神に信仰したり、偶像礼拝をするようになります。
ヨシュア記が終わり、この後に続く土師記では、そんなイスラエルの、混乱した様が描かれています。
ボーナストリビア:神様なのに人を殺しまくっていいのか?
イスラエルの民が、カナンの地に移り住むために、神は「人間を殺すことを良し」としました。
そして実際、ヨシュアに率いられた民たちは、カナンに住む男も女も関係なく、ことごとく殺してきました。
彼らにとっては、人を殺すことよりも、神の言いつけを破ることの方が、悪いことと考えられていたのです。
では、旧約聖書に登場する神は、悪逆非道なダークヒーロー、もしくは義賊のようなモノなのでしょうか?
これについてはいろんな見方をすることができます。
ただ、イスラエルの神には、イスラエルの神なりの正義があったことを忘れてはいけません。
まず背景として、カナンの地に住んでいた人々は、残虐な偶像礼拝をする民でした。
アモリ人も、エブス人も、カナン人も。彼らがする礼拝は、とても恐ろしもので、おそよ「礼拝」と呼べるものではありませんでした。
その礼拝方法というのは、以下のようになされます。
まず、大きな金属の像を作ります。そして、その像を火で炙る。それから、その燃え盛る銅像の掌に、生まれたばかりの赤ちゃんを抱かせるのです。
彼らは、「残虐であればあるほど、神は喜んでくださる」と考えていたのです。そこで、生まれたばかりの赤ちゃんを焼き殺して、神に捧げるというのが、彼らにとっての偶像礼拝でした。
また他にも、彼らは、神殿を乱行パーティの会場として扱っていました。
礼拝にやってくる男女や同性同士が性的関係を持つことで、神様も喜び、それを礼拝行為としていたのです。
ですので、そのような退廃した文化を滅ぼす、といった意味合いも、この命令には含まれていたのです。
そしてもちろん、「イスラエルの民を守るため」という目的もあります。
神に背いた人類。そんな人間を救うために必要としたのが、罪をゆるす救い主。それはやがて人となって生まれてくるキリストです。
そして、そのキリストを生み出すために選ばれたのがイスラエル人です。
ですから、全人類の中でも、イスラエル人は特別なのです。
ただ、こういった背景があっても、「キリスト教は戦争を良しとしている」「残虐な宗教だ」などといった、聖書やキリスト教を批判する声もあります。
しかし、これらはあくまで、この時代に生きていたイスラエル人に必要だった命令で、現代に生きるクリスチャンが同じようにするわけではありません。
過去のものを現代の目線で見るのではなく、過去のものは過去の目線でしっかりと見定めることが大切なのです。
(参考)