貧弱なイスラエル人
イスラエルの民が、信仰心を失いかけていた頃。
モアブという地では、王エグロンの号令の下、イスラエルに攻める計画が建てられていました。
そして、当時、強力な民族であったモアブ人たちは、次々にイスラエル人たちを倒していきます。
結果、イスラエルは、あっさりとエグロンに降伏し、18年間、エグロンの支配下に置かれるようになりました。
現金なイスラエル人
18年の間、イスラエルは、エグロンの圧政に苦しめられていました。
これにより、民たちは再び信仰心をとりもどしはじめ、神に助けを求めました。
すると、神は1人の人物を選びました。
彼の名は「エフド」、のちに“左利きのエフド”と呼ばれる人物です。
左利きのエフド
とある村に住んでいたエフドは、神の啓示を受け、エグロンに真ぎ物を納める一行に加わりました。
エフドがモアブに着くと、王に直接、宣ぎ物をささげました。
そしてその時、エフドは、王に近寄り、ささやくように言いました。「王様に、秘密のお知らせがございます」
強欲な王様は、何か賄賂がもらえるに違いない、と勘違いし、誰もいない屋上へと、エフドを招きました。
王様は早速、「何かね、秘密の知らせというのは」と、聞きます。
するとエフドは、素早く左手を伸ばし、腿(もも)の内側に結び付けておいたナイフを、王に突き立て、殺しました。 その後、エフドはすぐに、逃亡します。 そして、イスラエル全土に使者を送り、戦士達を集めました。
「私についてきなさい。神が共におられる。モアブ人は、もはや敵ではない」
おわり
こうして、エフドに率いられたイスラエル軍はモアブを圧倒し、大勝利を納めたのでした。
そして、その後80年間、エフドが指導者としてイスラエルを治めたことで、平和が続きました。
ボーナストリビア:右にあるのに「左京区」の理由
「左」といえば、京都の左京区が、右にあるのに、「左京区」という理由をご存知でしょうか?
京都には、左京区と右京区という地名があります。
しかし、この二つを地図で見ると、右側(東側)が左京区、左側(西側)が右京区となっているのです。
これは、中国の影響を受けてこうなったのです。
中国の古典に「天子、南面す」という言葉があります。
これはつまり、「君主は、北を背に、南に向かって君臨する」ことを意味します。
長安をはじめとする古代中国の王城都市のほとんどは、この構造をしているのです。
そして、この中国の都にならってつくられたのが ”なんと見事な(710)平城京”。
奈良時代に建てられたこのお城は、北側に天皇の住居である内裏が設けられ、そこから南に向かって、左手に左京、右手に右京を設計したのです。
この名残が、今の京都市の区分として引き継がれていたのです。
(参考)