サムエルの乳離
ハンナは乳離れをするまでサムエルを育てると、祭司エリの元へと、サムエルを連れていきました。
「神は私の願い聞いてくださいました。ですから、この子を神に捧げようと思います」
こうして、サムエルはエリの元で成長することになりました。
サムエルは、毎日幕屋の仕事をし、集まる人々にかわいがられていました。
眠れない夜
ある夜、サムエルは自分を呼びかける声で飛び起きました。
「サムエル」
エリに呼ばれたのだと思い、サムエルは急いで、彼女の元へと向かいます。
しかし、エリは首を傾げ、「わたしは呼んでいません。きっと勘違いでしょう。戻って寝なさい」というのでした。
ところが、サムエルが寝床に就くと、再び「サムエル……」という声がしました。
サムエルは再び、エリの所へと飛んでいきました。
流石に、不審に思ったエリは言いました。
「もしかしたら、神がおまえを呼んでおられるのかもしれない。それなら……。また声が聞こえたら、『神よ、お語りください。わたしは聞いております』と答えるのです」
サムエルは「わかりました」と答え、再度、床に就きました。
すると、また声がします。
サムエルは今度、エリに教えられた通りに答えました。 「神よ、お語りください。わたしは聞いております」
すると、神の声が聞こえました。
「エリの2人息子はならず者だ。しかし、エリはこの息子達を罰しようとしなかった。わたしは、そのことでエリの家を裁く」
実は、この二人息子について、サムエルは、少しだけ事情を知っていました。エリの息子達は、強欲で、礼拝のために幕屋にやってくる民からささげものをだまし取っていたのです。
2人の息子
翌朝、エリは、サムエルに昨晩のことについて尋ねました。
「神は何かおっしゃっていましたか?」
サムエルは言うかどうするか、戸惑いながらも、昨日あったことを正直に伝えました。
すると、エリは「それを語られたのは神だ。神がその通りに行われるだろう」と言い、深く頷きました。
それから数年後。
イスラエルは、ペリシテ人と戦うことになりました。
ペリシテ人は地中海治岸に住む民族で、イスラエルは常に、彼らに脅かされていました。
そこで、戦士として、エリの2人息子「ホフニ」と「ピネハス」が選ばれました。
そして案の定、ホフ二とピネハスは戦死し、イスラエルも大敗北を喫しました。
サムエルに伝えられた神の言葉はこうして、実現したのでした。
おわり
成長したサムエルは、やがて預言者となりました。
度重なるペリシテの攻撃に疲れ果てていた民は、神を求めるようになり、サムエルは民に頼られるようになっていました。
そして、サムエルの言うことにはなんでも従うようになった彼らは、再び神への信仰を取り戻していきました。
町中にあった、異教の神々は捨て去られ、「ミツパ」という町に礼拝堂を置くことで、民の団結力を高めました。
さらに、高まった結束力は次々と増大していき、その後のペリシテ軍との戦いでも、神の力を借りながら、大勝利を収めることができました。
こうして、サムエルは預言者としての地位を確実なものとしていきました。
ボーナストリビア:父の日
ハンナが必死に礼拝しサムエルが生まれたように、1人の必死な礼拝には、何かしらの不思議なパワーがあるのかもしれません。
例えば、皆さんは「父の日」は、父親思いの娘が作った、と言うことをご存知でしょうか?
父の日は、1909年、「母の日があるのに、父の日がないのはおかしい!」と疑問を持ったドット夫人によって生まれました。
ワシントンに住むドット夫人は、父の誕生日である6月、教会の牧師に礼拝を頼み込み「父の日」として、祝ってもらいました。
そしてこれを機に、「父の日」制定に向けての運動が開始されました。
また、ドット夫人の母は、父が南北戦争に出征(しゅっせい)していた時の苦労がたたり6人の子供が亡くなってしまいました。父はその後、再婚することなく、働き通しで子供達を育てました。
そんな父への感謝の気持ちと、協会も巻き込んだこの運動は、当時のウィルソン大統領を動かし、1916年に「父の日」が認知され、 1972年には国民の祝日となったのでした。
(参考)