自己に原因を求めるのは、昔から
「恋人に別れられたのは、私のせい」
「仕事ができないのは、私のせい」
「病気になったのは、私のせい」
このように、自分自身に苦しみの原因をおくことは、大昔からありました。
ヒンドゥー教では、クリシュナ神が「自己こそ自己の敵である」と語りました。(聖典『バガヴァッド・ギーター』より)
老子は「無為自然」の言葉で自意識による作為を批判しました。
古代ギリシアの哲学者たちは、「自己を理性で制御せよ」と口を揃えました。
ヒト心は必要か?
『山月記』(著者:中島淳)でこんなエピソードがあります。
物語の後半で、主人公の李徴がかつての友人に語りかけるシーンです。
「獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めからいまの形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう」
『山月記』のあらすじは、以下の通りです。
主人公の李徴は、詩人を目指し、官僚を辞めます。しかし、失敗。李徴は、再び旧職に戻ります。しかし、プライドと恥ずかしさが相まって、人と交わることができなくなります。そして、それはやがて自らを虎の姿へと変えてしまったのです。
自分を攻め続けた主人公は、やがて獣になったほうが幸せだ、という考えに至りました。
自己がなくなれば、苦を受ける主体もなくなり、全てから解放されるからです。
すべての元凶が自己にあるのなら、私たちも、ヒトの心などなくしたほうが良いのでしょうか?
サイコパスや、ロボットのような人間になるのが、最も幸せなことなのでしょうか?
自己とは何か?
これまで、多くの哲学者や宗教家が「自己とは何か?」という疑問を投げつづけ、そして説きつづけてきました。
その答えや考え方は、その論者によってさまざまなで、多くの人々は、まだ「自己とは何か?」という問いに対して、具体的な解を持ちあわせていません。
しかし、幸いにもここ数年の認知科学や脳科学の発達で、自己についてわかりやすい考え方が生まれました。
それは、「特定の機能の集合体」という考え方です。
自己とは、内面に常駐する絶対的な感覚でも、感情を支配する上位の存在でもありません。
ナイフとしてだけでなく、栓抜き、はさみ、ドライバー、ヤスリといった機能を持つ「十徳ナイフ」を「アーミーナイフ」といういうように、「自己」も、アーミーナイフのようなものなのです。
「自己」という単一のものは、存在せず、さまざまな機能を内包した総称を「自己」というのです。
自己の十徳は何か?
北イリノイ大学の認知科学者ジョン・スコウロンスキは、「人類に自己が備わったのは、 25万年前から5万年前頃だ」と推定しています。
およそ40万年前、人類の祖先であるホモ・エレクトスは、それまでの 30 ~ 50人単位の暮らしをやめて150 ~ 200人の集団で暮らすようになりました。
これにより、彼らは仲間と助け合って外敵から身を守れるようになり、日々の暮らしは格段に安全になりました。
しかし、グループでの生活は、同時に複数の問題も生みます。
食料、生殖の相手、裏切り者などなど、ちょうど現代にも存在する社会的な問題が起き始めたのです。
そこで、このような変化を生き抜くには、次の能力を要求されます。
●コミュニケーション能力
●相手の心理を予測する
●期待に答える
共感や、疑惑、期待などといった機能を包括した存在。
それが自己です。
おわり
『山月記』の李徴は、「自己」を、内側に常に存在し、自分を常に支配する存在と認識してしまい、虎になってしまいました。
ただ、「自己」とは、集団における、機能でしかないのです。
ある集団では、Aという顔で、Bという感情を持ちながら関わり、またある集団では、Cという顔で……といったように、このようなさまざまな顔や感情、全部を「自己」というのです。
●大見えを切って目標を宣言し、それでなんだか気まずくなったり、疎遠になったり。
●一生懸命勉強したのに、定期試験で赤点をとって、恥をかいたり
●いじめを受けて、自分を全否定したり
このどれも、「自己」の一部にしかすぎません。
完璧な人間がいないように、完璧な「自己」を持つ人など、どこにもいないのです。
何か挫けそうで、めげそうで、つまずきそうな時、それで自分を攻めるのではなく、「それは自分のほんの一部だ!」という割り切ってみるのはいかがでしょうか!
ボーナストリビア:自分で息を止めて窒息死することはできない
世の中には、たくさんの自殺をする方法があります。
中でも、首吊りや溺死などといった窒息死は、小さい子でも知っている方法です。
では、同じ窒息死でも、物を使わずに、自分の意思だけで窒息死することはできるのでしょうか?
正解はできません。
なぜなら、私たちの「自己」の機能の一つが、それを絶対にさせないからです。
呼吸における、脳からの命令は、大きく2つあります。
1つは、脳幹にある呼吸中枢からの命令です。
これは、無意識に繰り返す呼吸で、このおかげで睡眠中でも呼吸をすることができているわけです。
そしてもう一つは、随意運動といい、これは「自己の意思」によって行われる呼吸です。
自分で息を止めようとする行為は、この随意運動を行うことになります。
がしかし、ここで呼吸反射が起こります。(正確には「ヘーリング・ブロイウェル反射」という)
迷走神経を通じて、脳幹に対して呼吸をしなさい」という命令が強制的に伝わるのです。
それでも、「根性だ!」という思いで息を止め続けても、死を迎えるより先に意識が失われます。
すると「息を止める!」という意思は途絶え、ヘーリング・ブロイウェル反射によって自動的に呼吸が再開されてしまうのです。
私たちの体は、「自己」によって、自殺しないように作られているのです!