アメリカと日本の、異なる文化
欧米と東アジアでは、それぞれ異なった自己観を持っています。
欧米人によく見られるのは、「独立的」な自己観(相互独立的自己観)です。
この自己観には、「自分は、社会・家族・教育・仲間といった、他者から独立した存在である」という考え方がベースにあります。
一方、日本人(東洋人)は、「協調的」な自己観(相互協調的自己観)を持ちます。
「人は 他者や周りの環境との関わりがあって、初めて存在する」という考え方です。
分析的か、包括的か
この2つの自己間の面白いところは、その思考法にあります。
欧米人は、「分析的思考」と言うものを持っており、物事自体の特徴に注目します。
一方で、東アジアの人は、物事とその周囲の関わりに注目する「包括的思考」を持っているとされます。
例えば、「パンダ」「サル」「バナナ」の3つのうち、関係が近い2つのものを選ばせるとします。
この時、欧米の人は「パンダ」と「サル」が近い関係にあると考えます。
一方で東アジアの人は、「サル」と「バナナ」の関係が近いと考えます。
欧米人は「動物」というカテゴリーで分類し、東アジア人は、「サルはバナナを食べる」という関係で分類したのです。
これが、「分析的思考」と「包括的思考」の違いです。
農耕と牧畜
このような文化の違いは、「農耕」と「牧畜」といった、昔の人々の生活が端を走っていると考えられます。
その昔、人は生活のために、「農耕」と「牧畜」の2つの文化に分かれました。
農耕民のコミュニティーでは、農民同士の関係が重要でした。そのため、法に従うとなどといった、統制が取り安かったのです。
一方、牧畜民の場合は、広い土地で、人口密度が低い、という特徴があります。そのため、「自分の財産は自分で守る」と言う考え方が根底にあります。
この文化の違いは、たとえば「盗難事件」が起きた時にもあらわれます。
農耕民は、そもそも、人口密度が高いため、盗み事態が難しく、盗難が起こりにくいという特徴があります。
しかし仮に、作物が盗まれたとしても、彼らは「また作ることができる」という風に考えます。
一方、牧畜民は、人口密度が低く、かつ広い土地を、自分1人で守らなくてはなりません。そのため、家畜を盗まれた場合の損害は、とても大きいのです。
このような背景によって生まれたのが、「名誉を重んじる文化」です。
もし、被害に遭った時に、泣き寝入りするようでは、さらに悪人たちのカモにされかねません。
そのため、「タフだ!」とか「男らしい!」といった評判は、彼のにとって、とても重要なのです。
こうして彼らは、名誉を重んじるようになりました。
おわり
アメリカ(特に南部)では、「男としての評判」に関わった、言い争いの殺人は、現代でも多いそうです。
このように聞くと、私たち日本人は、「南米は危ない」「海外は野蛮だ」と考えてしまいます。
それは本能的なことですから、仕方がないと思います。
しかし、そのような偏見や差別が、少し、行きすぎている、という自覚は持つべきです。
他民族や他宗教の人を徹底的に弾圧したり、最終的に集団殺戮をしたりする、「ジェノサイド」は、このような偏見から生まれます。
人は、自分の取り巻く「宗教」「人種」「民族」「国家」から、外集団に対する差別を行います。
だがしかし、人類の祖先はもともと1つだった、ということを忘れてはいけません!
おまけ雑学:素朴なリアリズム
人は「自分の解釈は真実であり、相手もそれをわかっているはずだ」という思い込みがあります。
これは「素朴なリアリズム」と呼ばれる考え方です。
「素朴なリアリズム」は以下の3つの信念によってもたらされます。
①自分は出来事を客観的で、かつ、現実をありのままに見ており、自分の判断や態度、信念は冷静かつ歪みのないものである
②同じようにアクセスし、筋道を立てて考えれば、他人も、自分と同じ、反応・行動・意見になるはず。
③そのため相手との意見が合わないときは以下の2つの理由が考えられる。(1)他者は自分と異なる情報に接触した。(2)他者は怠惰で、理性的ではない。
ある問題について議論をする際、賛成派と反対派がそれぞれ、自分の主張を譲らないことが、あります。
これは「素朴なリアリズム」が影響しているのです。
私たちは、「自分がそうであるように、相手も自分が正しいと信じている」ということを念頭におかなくてはならないのです!