今回は、『群衆心理』という本から、「群衆の危うさ」について紹介します。
群衆とは
群衆と集団の違いはなんでしょうか?
どちらも、「たくさんの人たちが集まったもの」といったいった、似たようなイメージを持ってしまいます。
しかし両者には、断固として、大きな違いがあります。
なぜなら、群衆には、「個性の喪失」と「感情・概念の同一化」という2つの特徴があるからですす。
これが、ただ不特定多数の人たちが集まった「集団」との大きな違いです。
まず人は、群衆を形成すると、一人でいる時とはまったく異なる考え方をします。自分を自分としてではなく、群衆の一員として考えてしまうのです。
これが、「個性の喪失」です。
そして、知力も体力も人格も違う人たちが、群衆を形成することで、集団的精神が生まれます。
群衆全体で、同じ概念・感情を持つわけです。
群衆の危うさ
個性を失い、感情・概念を共有した群衆は、多くの危うさを孕みます。
まず、集団的精神により、暗示を受けやすく、短絡的になり、物事を簡単に信じるようになってしまいます。
そうなることで、衝動的になったり、動揺や興奮しやすくなったり、横暴になったりします。
私たち人類は、何年の時を経ようとも、何一つ、賢くなっていないのです。
群衆のリーダーが持つ「三種の神器」
群衆のリーダーは、このような人間の群集心理をうまく利用するために、3つのテクニックを巧みに使い、人々を誘導します。
その3つのテクニックとは、「断言」「反復」「感染」です。
まず「断言」です。
人は、真実や根拠よりも、無条件の断言こそ気に入ります。
そして、その断言を何度も「反復」することで、自然と脳へ刷り込みます。
そして形成された概念や感情は、まるでウィルスが人から人へと感染するように、どんどん広がっていくのです。
おわり
本書では以下のようなことが述べられています。
「人間は群衆の一員となるという事実だけで、文明の段階を幾つもくだってしまうのである。それは、孤立していたときには、おそらく教養のある人であったろうが、群衆に変わると本能的な人間、したがって野蛮人と化してしまうのだ」
企業の悪事や、学校のいじめ、友達内での差別。
人は、群衆を形成するこで、思考を停止し、知的レベルを一段下げます。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」の心理で、個人ではしないような行為を平気でしてしまうのです。
現代社会では、否が応でも、組織に所属する生活を強いられてしまいます。
その時、私たちは「個人としての自分」だけでなく、「集団の中における自分」にも目を配る必要があるのです。
最終的に、絶対に自分を裏切らない存在というのは、「自分」だけなのですから。
ボーナストリビア:「野次馬」はオヤジ馬!
群衆の一つに、事件や事故などが起きた時に、面白半分で騒ぎ立てる「野次馬」があると思います。
みなさんは、この「野次馬」の語源をご存知でしょうか?
「野次馬」はもともと、「親父馬」が詰まって転化したものだと言われています。
本来は「歳をとった馬」という意味で、歳をとったオヤジ馬をさしていたのです。
オヤジ馬は、ただただ若い馬の後をついていくことしかできず、役に立たなかったそうです。
そこから、事故や事件現場で、無意味に騒ぎ立てる群衆を「親父馬(野次馬)」と蔑むようになったといいます。
なお、この言葉からさらに転じてできたのが、「野次を飛ばす」や「野次る」といった言葉です。
人は一体、いつになったら文明の階段を登り始めるのでしょうか。